【今さら聞けない卓球用語】日中国交正常化にも影響を与えたピンポン外交とは?
スポニティ
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スポニティによる週次連載記事の第18回、今回は卓球が政治と外交に影響を与えた「ピンポン外交」について解説していきます。
中国がいなければ世界選手権じゃない
中国は1961、63、65年の世界選手権を個人戦と団体戦で3連覇していました。しかし次の年から、中国では文化大革命が起こり、国内での争乱や混乱によって選手たちは国際大会への参加ができなくなりました。
そんな中、1971年の世界選手権は日本の名古屋で開催されることが決まり、当時の日本卓球協会の会長である後藤鉀二(こうじ)会長は「世界最強の中国が来ないのでは、世界大会とは言えない」という考えから、中国に訪問し中国の世界選手権参加を打診したのです。
交渉は困難を極めました。「中国を代表する国家」の正当性をめぐり、中華民国(台湾)の扱いに対する意見の相違があったからです。しかし最終的には、周恩来首相の大会への参加支持もあり、毛沢東主席が中華人民共和国(中国)の参加を承認しました。
二代目中国卓球協会会長の徐寅生氏は、この時のことについて、「後藤先生の恩を中国の卓球界は忘れることはない。中国の卓球チームが日本を訪問したときは必ず名古屋に行き、後藤先生の墓参りをすることになっている」とおっしゃったそうです。
小さなピンポン球が地球を動かす
大会期間中に国際卓球連盟の総会が開かれました。そこでアメリカ代表団副団長のラフォード・ハリソンなどが中国側に対して「中国の卓球のレベルは非常に高いので、アメリカチームを中国に招待してほしい」といった申し出を行いました。
中国側は困惑しました。何か裏があるのか、何かの冗談なのか……。しかし、試合などを通じアメリカ人が友好的だということは多くの人が感じていたことであり、彼らの訪中の意思は本物だと結論づけるに至ります。
このことは当然、周恩来と毛沢東の耳に入ることになります。中国側には時期尚早だとアメリカチームの訪中に反対する勢力もいたようですが、もう大会期間も最終日を迎え、明日には名古屋からアメリカへと帰国の途へ。毛沢東は最後の決断を下しました。
「アメリカチームを直ちに中国に招請する」
1971年4月10日、1949年に中華人民共和国が成立後、初めてアメリカ人が中国を公式訪問することになりました。
その記念すべき訪中実現後に、周恩来はこう語ったそうです。
「ピンポン球が弾んで世界を揺り動かした。小さな白い球が地球を動かしたのだ」
つながった友好のラリー
訪中から7日後、アメリカチーム代表のスティンホーベン団長はホワイトハウスに入り、「中国卓球チームをアメリカに招待した」などといったことを伝えました。
米中両国が一切の交流をしなくなってから、もう22年になろうとしていましたが、これを契機に米中双方の接触が加速するようになります。
その後いくつかのやり取りを経て、1971年7月にヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官が極秘に訪中、1972年2月には、リチャード・ニクソン大統領の訪中へとつながっていきます。
日本もこれに負けじと、1972年9月に日中共同声明を発表し日中の国交回復を実現させました。
中国がこのように様々な国と国交を樹立していった背景には、当然政治的な思惑も多くありましたが、しかしそのきっかけを作ったのは純粋な卓球選手たちの交流があったからです。
このような友好の“ラリー”が、卓球やスポーツの枠を超え人と人を結びつけるのだと信じたいですね。
文:干場卓哉(ホシバタクヤ)