【アナタの知らない卓球の世界】ミスター卓球「萩村伊智朗」とは?世界を救った卓球界のレジェンド紹介
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日本には卓球のあらゆる面を変革させたミスター卓球が存在した。
彼は現役時代には世界選手権では12個の金メダル、そして指導者としても数多く偉大な選手を育て、後にITTF(国際卓球連盟)会長に就任し、世界の卓球を改革した。
今回はそんな偉大な存在である「萩村伊智朗」さんについて紹介します。
萩村伊智朗とは?
彼は1932年6月25日に静岡県で誕生します。
当時は二二六事件やドイツ軍のポーランド侵攻など戦争真っ只中に突入しようとしている時代で、戦争は彼の人生に大きな影響を残し、彼自身特攻隊になることさえも覚悟をしていました。
卓球との出会いは高校時代で、入部の決定的な動機は上級生のラリーを見て感銘を受けたことでした。
ただ、当時の卓球部は卓球台もなく練習もろくにできる環境ではなかったため、最初の公式戦は一回戦で敗北しています。
しかし、その後は妥協を許さない厳しい性格も手伝って猛練習に打ち込み、卓球を始めて五年半という短い期間で1953年の全日本選手権で初出場、初優勝。
さらに翌年には、世界卓球の日本代表に選ばれると、この大会でも初出場・初優勝、その後も日本の黄金時代の中核として活躍し、世界卓球では合計12個の金メダルを獲得します。
彼のプレースタイルは、51%以上の確率で得点が入るチャンスがある場合はスマッシュをするという「51%理論」を元に考えられた、今で言うペンドラ主体の非常に攻撃的なプレースタイルで、幼少期から鍛えたフットワークでドライブやスマッシュを次々と決めていきました。
33歳で現役を引退した後は指導者として世界中を飛び回り、のちの世界卓球ダブルス王者のハンス・アルセアなど多くの有名選手に栄冠をもたらしています。
また卓球をより広めるために初心者でもラリーを楽しめるよう「ラージボール卓球(当時は新卓球)」の開発、卓球のイメージアップのために卓球台の色を深緑から青に変更など様々な改革を打ち出していき、その功績により1987年には国際卓球連盟会長に就任しました。
萩村伊智郎の功績
彼最大の功績は「ピンポン外交」において重要な役割を担ったことが上げられるのではないでしょうか。
萩村の働きかけによって、当時世界卓球に参加できなかった中国選手が6年ぶりに世界選手権に参加できるようになったこと、しかもその大会がやがて米中の首脳対談につながるきっかけになったという出来事です。
これは冷戦下における重要な歴史的事案で、その流れを作ったのが卓球であり、萩村の行動が少なからず影響を及ぼしています。
しかもそれだけでなく国際卓球連盟会長のときには、韓国と北朝鮮の統一チーム結成に尽力し、分断後初めての統一チーム結成を行っています。
卓球がいや萩村が、国際政治に及ぼした影響は計りしれず、彼がいなけばもしかしたら冷戦が終結するのがもう少し後の時代になっていたかもしれません。
それだけ世界を前進させるために必要な事を、彼は行っていたのです。
最後に
卓球界には他に萩村がいたからこそと言われる功績が多々あります。
事実、それは卓球のプレースタイルから、指導方法、卓球のイメージなど彼によってもたらされた変革が多々あるからです。
彼の功績についてはまだまだ記載しきれていないことが山ほどあります。
今の卓球を知るために。
皆様も日本卓球界の歴史の祖となる「萩村伊智朗」をぜひ調べてみてください。
(文・富永陽介)